(写真左)高橋 敏浩 氏 -(写真右)阿部 淳 氏 

いよいよ「女川町復幸祭2019 復興の向こう側へ」開催直前になりました!

 今回で最後となる復幸祭の開催に合わせて、初代実行委員長 阿部 淳(あべ あつし)さん、現実行委員長 高橋 敏浩(たかはし としひろ)さんのお2人に、復幸祭の立ち上げエピソードやこれまでの裏話、FINALにかける思いなどを、実行委員メンバーがインタビューしてきました!

 今だから言える話やあんなことからこんなことまで、赤裸々に語っていただいたここでしか聞けないエピソード盛りだくさんです!!

(写真)阿部 淳 氏 

-  では、まず立ち上げのお話しから伺えればと思います!復幸祭を立ち上げた経緯や、当時のお話を教えてください!

阿部:どの辺から話せばいいのかなあ。まあ、震災直後から話します。
まず、自分の会社(マルキチ阿部商店)が手作りで商品を作っていた事もあって、商売が復活しやすかったんです。

-  手作りで昆布巻きを作られていますもんね。

阿部: 3月に震災でしょ。
うちの会社は7月に大体復活して昆布巻きをまた作り始めました。
その時は他の企業の方々は結構津波の被害で工場を流されたままだったので、外に売りに行きたいけど商品がない、作れないということが多かったんですよ。
だから、外に売りに行くのがすでに復旧できていた自分の会社に集中してしまったんです。

―どの辺に販売には行かれていたんですか?

阿部:東京、横浜、仙台…まあ結構津々浦々行っている間に、お客さんに「女川町ってどこにあるの?」「原発があって大変だよね」みたいなことを言われる中で、現地の発信があまりにも足りなすぎるんだなと痛感しました。

また、自分の会社は何とか早い段階で生産を始めることができ、販売も出来て、商売をする感覚を思い出すことが出来ていたので、みんなにもこの思いを味わってほしいなっていう想いが生まれてきました。

そんなことを考えていたタイミングで、震災前にイベントを通じて知り合い、お世話になっていたテレビ局の方から、
「震災後の町を元気にするために、何かお祭りやらないですか?
実は国からの補助金を使ってイベントができるかもしれない」
って教えてもらったんです。
それを聞いて、「これだ」と思い、その方と2人で東京へ補助金の申請に行ってみました。

そうすると
「これは、商店街活性化のための補助金なんです。」
「女川町はこの補助金で商店街の活性化ができるんですか」
と言われてしまい。

「津波で何もなくなって、みんな立ち上がろうとしている時に、そういった助けがあるからこそ、立ち上がれる人間もいるんじゃないですか」と言ったところ、
「そうは言っても商店街活性化のための補助金なんです」
「女川町にある商店街ってどこですか?」
と言われてしまい…
「あるわけねえわ!」みたいに、喧嘩みたいになってしまって…(笑)。

―  だから、初年度は女川町「商店街」復幸祭だったんですね。

阿部:そう。

そこから、実際にお祭りをやるに当たって、自分が先頭に立つのはいいけど、初めての取組みだったので、誰に声をかけて始めたらいいのか悩んでいました。
企画書作って、とにかく色んな人に声をかけてみたんですが、ほとんど誰も共感してくれなくて…。

―  当時町内では何か地域の団体に所属していたんですか?

阿部:水産加工研究会には所属していました。
ただ、大学からずっと仙台で、震災前に家業の事情で女川に戻ってきたばかりだったんで、当時は女川にほとんど知り合いがいなかったんです。

高橋:そのときは淳さんともお付き合いなかったですよね。。

阿部:うん。本当にみんな知らなかった。
唯一知っていたのがやっさん(金華楼店主 鈴木康仁さん)ぐらいかな。2つ年上だけど、兄貴の同級生で、うちに来て兄貴と酒を飲んでいた人だったから。
そこで、やっさんに「お祭りをやりたいので、協力してもらっていいですか?」って声をかけたら、「せっかくだからいいよ」って協力してくれたんです。

そこから俺とやっさんで、こういう企画良いんじゃないか?ああいう企画良いんじゃないか?って話してるうちに、今度は周囲から
「あんたたちなんか計画してるけど、何がやりたいの?」
「人が死んでいるのにお祭りって、ちょっとふざけすぎているんじゃないの?大体車も女川まで来られるかどうかもわからないのに」みたいに反対されたり、批判されたりして。

あの当時女川町ってイベント慣れしてなかったんだよね。色々祭りはやっていたけど、一から自分たちでイベントを作る事はなかったんですよ。
だから改めて、町長はじめ、まちの色んな組織・団体、とにかくみんな声かけて、こういうことをやりたいんですって説明会をしたんですが、協力するって手を挙げてくれたのはほんの一部でした。 

 

(写真左)高橋 敏浩 氏 -(写真右)阿部 淳 氏 

―  そうだったんですね…!

阿部:でも、あきらめたくなくて。
とにかくやりましょうって言って、会議を開いて。
何をやろう、どんな風にやろうって、放送局の方と俺が中心になりながら色々話していた中で出てきたのが『復幸男』だったんです。

―  なるほど!!

阿部:震災前の女川駅前にあった鐘が津波の被害から奇跡的に残っていたので、最初はそれを象徴的なものにして、大物歌手にお越しいただいて歌を歌ってもらいたいなみたいな話から始まって(笑)
そんな風に色々話をしている中で出てきたのが『復幸男』の案で。

役場にこういうことをやりたいんですって説明に上がったのですが、
「やっぱりけが人を出してしまうと問題なので…」って、許可がもらえず。

あの当時は本当に右も左もわからなかったので、何かとにかくやろうみたいな感じだったんですよね。
でもやればやるほど、色んな人から批難されたり、反対されたりして…
そんなことばかり重なると、なんだったら女川で加工しなくても、石巻とか塩釜あたりに出ていってもいいやって思っていました(笑) 

―反対するが人いるなら?

阿部:実際、この祭りを失敗したら、女川に居場所なんてなくなるだろうなって思っていたので。

―  そんな反対に遭いながらも、やっぱり女川の現状を見てもらいたいと進めてこられたんですね。

阿部:震災があって、色んな支援を全国からいただいて、みんなもらい慣れしてきていた時期でもあったんですよね。
ゲーム欲しいって言ったらすぐもらえるみたいな。
そんな流れをなくしたかったのもあるんですよね。自分たちで買うのは構わないと思うんですけど、被災地だからって人からものをもらい続けるようではこれから一生稼げなくなってしまう。だから、生業っていうものを思い出して、ちゃんと稼いだお金でものを買うっていうことをしていきたい。
そのためにはまず人を呼ばなきゃいけない。
そこに現状を知ってほしいという最初の話につながるんですよね。

「女川町ってどこ?」「東北は津波の被害って大丈夫なの?」って言われたので、もっと女川町のことを知ってほしいよねっていう想いも生まれてきて。

その頃被災地に対しての認識って2極化していたと思うんですよ。
瓦礫で山積みになった町に観光気分で来て写真を撮って帰るだけの人。
何も出来ない自分が被災地に行っても迷惑になるだけなので行けないっていう人。
そんな人たちに目くじらを立てたり、遠慮したりせずに、みんなに女川に来てもらって、現状見てもらって、俺たちは商売をきちんと立ち上げる。
そして、震災があったことを伝承していく。
というのがお祭りの3つの目的になりました。

あともう一つ付け加えるならば、当時俺は女川の人を全く知らなかった。
そんな中で、女川町でこういうイベントをやるためにはもっと横のつながり欲しいと思うようになってきて。
俺の目的としては、簡単にいうと、町に出て、一緒に飲める仲間が欲しかっただけなんです。気軽にいつでも会えて、顔を合わせれば挨拶して、ときには一緒に飲んで、みたいな関係性を作りたかったんです。
なりたくなくても、俺の世代のメンバーって、20~30年後には町議とか、どこかの組合長とか商工会長とかなる人たちなので、今のうちに繋がりが出来ていれば女川町も面白い町になるんじゃないかなと。