2011年

2011年3月11日、女川町は震災で大きな被害を受けました。

海のきれいなまち、水産業が盛んなまちとして、海の恩恵を受けていた女川町は、大きな津波によって町のほとんどが奪われていきました。
その被害の大きさは、はかりしれません。建物の倒壊率は80%以上。町民の10人に1人が亡くなりました。

震災から2ヶ月後の2011年5月4日、女川高校グラウンド(現在の「きぼうのかね商店街」)において

~女川の町は俺達が守る~
おながわ復幸市! 店は流されても商人魂は健在です!

と題したイベントが行われました。

女川の商工業者が事業再開へ向けて始動していることを、被災した町民へ向けて知ってもらうことで希望を持ってもらうこと。
炊き出しや物資の配布ではなく、再び町内で買い物が出来るという喜びを味わってもらうこと。
そして繋がりが出来た参加団体の皆様と継続的なパイプを作ることを目的としました。
(→ 当時の企画趣意書)

しかしパイプ椅子やテント、電気、水道も満足に手配出来ず、実行委員会で出来たことは会場の確保と告知のみ。必要なものは出店者自ら用意して頂くことで何とかイベントを開催にこぎつけました。

多くの被災町民が震災後自らが身を寄せる避難所にいる方以外と出会う機会がない中、再会のシーンが会場のあちらこちらで繰り広げられました。
また、与えられるのではなく、自らがお金を出して少ないながらも好きな商品を選んで買い物するという喜びも味わって頂きました。

この日をきっかけに、女川町の商工業者は事業再開へ向けて大きく動き出しました。

2012年

そして2012年3月18日 震災から1年を過ぎ、女川復興の狼煙を上げようと町内の若者達が企画し、被災地女川町へ沢山の方へ足を運んでもらいたいと新しい祭りが企画されました。

「女川町商店街復幸祭 -希望の鐘を鳴らそう-」

町外の多くの方に足を運んで頂き、出店者や商店への経済効果拡大を図るとともに、復興へ向けて日々前へと進んでいる町の姿を見て頂こうという目的のもと開催された初めての復幸祭は、人口8,500人となってしまった町に、10,000人近いお客様をもたらし、町の伝説となりました。

そして2012年4月29日にオープンした「きぼうのかね商店街」の名称の由来になりました。

2013年

2013年には、初の「復幸男」が開催されました。

「津波が来たら高台へ逃げる」という津波避難の基本を、何かの形で構成へ伝え続けたい…、一過性のイベントではなく年中行事として続けていき、100 年続けて貞観、慶長の大津波伝承と同じく、女川町の民族伝承となるように育てていきたいとの思いから、この「祭」を企画いたしました。スタート時間も、伝承をきちんと伝えていくために。敢えて女川に津波が到達した午後 3 時 32 分に設定しました。(観光協会)

2014年

そして2014年は「女川町復幸祭」と名前を改め浦宿駅の再開記念切符のついた「女川駅弁」も話題を集めました。女川町内の飲食店がこの日のために腕をふるう一日だけの駅弁は翌年以降も恒例となっています。

女川町復幸祭 ~ 魅せましょう 女川の底力!!

と題し、連覇を果たした復幸男が鳴らす「希望の鐘」の音でスタートしました。
途中強い雨に見舞われあいにくの天気にもかかわらず、来場数は1万5千人を越え、多くの方々に女川町の「今」を知って頂ける機会となりました。

2015年

2015年は、JR女川駅の完成と新しいまちびらきを祝うという目的も含まれ

女川町復幸祭  – いざ出港、新生元年
~あがいん 見らいん 来てけさいん~

と題し、より多くの方々に女川町の「今」を感じていただき、1000年に1度のまちづくりをともに祝っていただきたいという思いを持って開催いたしました。

 

2016年

続く2016年の女川町復幸祭は

夢を叶える町がある
女川町復幸祭2016

と題し、これまでの目的に加え、町民の自己実現の場としての役割も持たせました。
2015年12月に駅前商業エリア「シーパルピア女川」がオープンし、女川町は「新しいスタートが世界一生まれる町へ。」という言葉を掲げました。
2016年の元旦、女川駅の展望台からシーパルピア女川を臨むと、まっすぐに伸びた商店街の先、ど真ん中に、初日の出が昇りました。
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初日の出に夢を叶える希望を感じ、この女川駅前商業エリアを広く使っての開催となりました。